更新日:2008年9月10日
Vol.263:多田銀銅山跡(猪名川町銀山)
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700年続いた採掘の遺構

 いまは住宅地として知られる阪神間に鉱山があり、鎌倉時代から三十数年前まで銀や銅を産出してきた。多田銀銅山という。閉山後は、中心の銀山があった猪名川町が、鉱山の遺構や遺跡を整備。去年4月には、歴史の紹介や採掘道具の展示をする「多田銀銅山悠久の館」(写真1)を建設した。一帯を案内する周辺マップを手に、里山を歩いた。
 この鉱山は、川西、宝塚、池田、箕面市など北摂と呼ばれる兵庫、大阪両府県の7市町にまたがる。同町教委発行の「多田銀銅山代官所跡遺跡発掘調査について」によると、1211年から1973年まで700年以上にわたって採掘され、猪名川町の銀山は江戸時代に幕府の直轄となった。
それよりはるか前、東大寺を建設する時に、ここから採掘された銅が使われたとの伝承もある。悠久の館は、その銀山代官所跡の川向かい。200以上あるといわれる間歩(坑道)の一部も紹介しているので、まず館に立ち寄るのがお勧め。
  館から約550メートル。鉱山の神様を祭っている金山彦神社の横を通り「青木間歩」(写真2)に到着。周りにアオキが多く生えていたことから名付けられたと伝えられ、銀山で唯一、中へ入ることができる
地図 入り口は高さ約1.5メートル、幅約1メートル。50メートルほど先まで進めた。温度は常に17−20度。ひんやり涼しい。壁や天井は岩肌がむき出しになっている(写真3)。絵の具になる珪孔雀石(けいくじゃくせき)が見られるそうだが、分からなかった。
 悠久館長の仲綾子さん(44)によると、発掘作業で、塵肺(じんぱい)になり亡くなる人も少なくなく、労働者の平均寿命は30歳前後だったという。
 秀吉が開抗したという台所間歩(写真4)と瓢箪(ひょうたん)間歩は、青木間歩から600メートルほど離れている。「台所」は大阪城の台所(経済)を支えるほど多くの銀や銅がとれたことから名付けられた。「瓢箪」は入り口の高さが2メートル以上。秀吉が馬に乗ったまま入れたといわれている。秀吉の馬印、千成瓢箪から名付けられた。
 瓢箪間歩を中心に、昭和初期から機械を使って採掘していた日本鉱業多田鉱業所は、多田銀銅山で最後まで稼動していたが、鉱物が枯渇し1973年に閉鎖した。跡地は草木が生い茂り、かつての繁栄ぶりは見ることができない。
■多田銀銅山悠久の館(072・766・4800)。無料。月曜は休み(祝日の場合はその翌日)。 青木間歩への入場は午前9−午後5時。

※この記事は、朝日新聞読者にお届けしている「あいあいAI 」(播州)に
掲載されたものの転載です。

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